そのアイデアは「エゴ」であった

 

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今回の設計課題はレストエリア。
コンセプトはアイデアを生む場所と決めた。

イデアを生むためには歩くことも大切である。

だから、目的地に着くには通常より多く歩くことになるような設計をした。
 
しかし教授に「それはエゴである」と指摘されたのである。

「エゴ」という言葉でアイデアを全否定されたため今回の設計課題もほぼスタートラインからの作り直しとなったわけだが、今一度ここで「エゴ」とは何で、どうすれば「エゴ」にならないのかについて思ったことを記録しておきたいと思う。

 

 

エゴが生まれた経緯

設計課題をやり始める時、最初に考えるべきものはテーマである。
周りの発表を見てるあたり「どんなカタチを使ってデザインしたいか」が最初に来るようで「そこで何をしたいか」を最初に考えた事が『エゴ』と批評された原因のような気がしてきたのだが、ともかくとして私は「アイデアを生む場所」を設計したいと思って取り掛かった。
 
「アイデアを生む場所」をデザインするには「アイデアを生む行為」をする場所にする必要がある。その行為の一つとして歩くことを重視した。
歩くための場所は歩道というモノを設置すればいいだけの話ではあるが、肥満児の部屋にただ安直にトレーニングマシーンを設置しても利用しないであろうことから、机に向かうまでにキョリを作り半強制的に歩くことになるデザインをしたのだ。
 

自分のアイデアを批判してみる。

目的地に向かうために遠回り、より長い道を歩かせるというのは単調なやり込み型RPGにありがちなお使いクエストのようである。そのようなゲームも少なくないあたり一定の支持はあるのだろうが、たしかに私はそういう趣旨の作品はクソゲーに分類するタイプである。極端に野次を入れるとしたらトイレまでの道のりを迷路にしてるようなモノであるのだろうか。
めんどくさいダンジョンは周回に利用されないように、めんどくさい場所はいずれ利用する人がいなくなってしまうだろう。
 
 

客観的に「エゴ」作品を見てみる

今回の私の設計は教授の囁きにより粉砕されたわけだが、それでも自分の「エゴ」を強行するとどのような結果になるのだろうか。
 
そこで、設計する方の「エゴ」の強行突破と聞いてふと思い出した事がある。
特にこの番組内作品の中で逆の意味で一躍有名になった『ドリームハウス』こと全面ガラス張りで透け透けハウスを思い出したのだ。
 
ドリームハウスの詳しい内容は省くとして、なるほどふむふむ確かに建築家のエゴが暴走して視聴者から支持を得られなかった例のように思える。
 
 全面を透明ガラス張りのメリットと言えば、奇抜で特色のある建物になるだろうし、何より内部は明るさは類を見ないレベルになると思われる。が、実生活をするにあたり内部が丸見えというのはプライバシーの問題は言わずもがな、防犯上の問題も出てくるだろうし全面ガラスは耐久性がよろしくないようで随時メンテナンスの必要もあるようだ。
 
こう考えてみるとドリームハウスが支持を得られなかったのは全面ガラス張りにしたいという案は一定のメリットというモノはあるもののデメリットも多くあり、そのデメリットを感じさせないようにするアイデアが不足していたのだと思う。だから「エゴ」の強行となってしまったのだろう。


利用者を無意識にエゴに取り込む

当初、私はアイデアを生むためには歩くことが大事であり、必然として歩くようになる設計をした。しかしこれはエゴの押し付けであり好ましくないものだった。
これを改善するとしたら、歩いても歩かないでもいいという自由の選択肢を用意した上で利用者は歩く方を選択肢してしまう設計をするべきであるのだろうか。利用者は無意識に設計者のエゴの上で踊らされてるような、そのことに利用者はなかなか気付くことが出来ないデザインが求められるのだろう。

歩かなくてはいいが、つい歩きたくなるデザイン。
なかなかアイデアが浮かばない、、、

教授の挙げられていた例としては美術館や日本庭園などがあった。
美術館では作品を順番に眺める通路を定めていながらも途中でショートカットしたり、外に出られるような選択肢を用意してある設計になってるそうだ。言われてみればそうだったような。
しかし美術館における歩きたくなる要素というのは美術品、展示品であることを考えると歩きたくなるデザインとして参考にするのは難しいように思える。それとも実は建物にも歩きたくなるデザインが施されていたのだろうか。


次回の提出期限までは1週間の猶予しかないが、歩きたくなるようなアイデアという終わりが見えない課題を考えてみていきたい。




蛇足になるが、教授による自分の作品の批評の中におおよそ全ての設計課題を一蹴する無敵の文句「ソレ=ベツニ=ココデヤルヒツヨウナインジャナイノ」というのがあった。
ようはアイデアを生む場所などと設計しているがアイデアなんかそんな場所で生む必要はない。飯を食べる場所を設計してるが飯なんかそんな場所で食べる必要はない。と受け取れる指摘だったのだが、「必要」という言葉を使ったのは間違いではないのかと思っている。

完全に自分の良いように捉えるとしたら、「そこでやる利点をもう少しあると良いのではないか」のような指摘だったとしたい。

そこでやりたい人だけやって、やりたくないならやらなくていい。そういう選択肢が必要なのだと今回わかったのだ。
そこでやる「必要」があるというのはそれこそ「エゴ」の強要になってしまうと思うからだ。


違うのかな?